エレファントの英語教育実践道

私の英語教育と,これからの英語教育について。

英語授業研究学会第34回全国大会は2日間で520名を超える参加で大成功!

英語授業研究学会第34回全国大会は8月11日・12日の2日間で行われました。

期間中の参加者が520名を超えました。1日目の夜の懇親会では60名を超える参加!

久しぶりの対面実施でどうなることやらと思いましたが、実施できてよかったです。

eijuken.smoosy.atlas.jp

 

今回も、運営側に加わりながら、発表も行うという二足のわらじでした。

 

頂いたお題は「協働的な学びを実現させる指導・支援の在り方」

このお題、言いたいことをまとめるの、難しかったです。

というのも、意外と無意識的なレベルでやってる指導や支援が

実は協働的な学びをにつながっているということがわかってないから。

自らの過去の授業実践などを振り返る必要がありました。

 

とはいっても、お題としてはよくある

「ペア活動・グループ活動」やればいいんでしょ的なノリで

参加される方も多いのかなと思い、

「そうじゃないんですよ」ということを伝えつつ、

自分独自のユニークな視点から話を切り出せないかなと発表内容を考えました。

 

ということで、私のいいたいことは2つです。

 

①聴くことの重要性

協働的な学びについて、現場での認識が少々誤解されていると思うことがある。その一つが「協働的な学びとは、発表活動などの中にあり、その中でも発表する側がもっとも重要である」というものである。これに関しては、直感的にも「いやそんなことはない。聴く側も大切だ」と私を含めてほとんどの方が同意するところだと思う。ところが後で実践を振り返ってみると、聴く側への指導はあまりなかったりする。発表する側は目的や場面や状況を意識して発表などをし、授業でも、使用する語彙や表現、スピーキングの練習などを重点的に行うことで、それ相応の学びがある。しかし、聴く側の学びが軽視されていることがあり、それは大きな問題である。発表する側が一生懸命話しても、聴く側は学びがないと感じてしまう場合、発表する側の努力は徒労に終わり、有意義な時間を過ごせず、結果的にはどちらにとっても不幸である。
また、聴く側の学びが軽視されているのは、意見や考えを聴いているときだけとは限らない。たいていの場合、発表活動や意見交換は、「聴いたら終わり」であり、そこにも大きな問題がありそうである。もちろん、聴いただけで学びが大いにあったと、そういうこともあるとは思う。しかし、その一方、対話が対話として成立するためには、「聴いたら終わり」ということでは不十分である。

まずは、協働的な学びで想像されるペア活動・グループ活動で話す人の学びにフォーカスしがちという現象に目を向けたい。そうではなくて、「協働的」とするならば、聴く側の学びにもきちんとフォーカスしないと、それは「協働的」なんてものではなく、「おしつけ」「偽善的」「はなしっぱなし」という活動である。

授業実践を振り返ると、こういう活動・生徒をよく見てきた記憶もあるからで、自戒の意味も込める。

 

②様々な意見や考え方に触れることの重要性

協働的な学びが、様々な意見や考え方に触れることを要求しているにも関わらず、我々はクラスメイトとの意見交換にとどまっていることが多い。たしかに、教室内でも多様性はあり、様々な意見や考え方が述べられることはあるだろう。また、そのように生徒同士がお互いを認め合い、多様性を尊重することのできる教室環境作りは大切なことである。しかし、教室内の気心知れた仲間内だけで学びが完結してしまうと、学んでいることと社会へのつながりや、将来とのつながりの薄さに、少し寂しさを感じやしないだろうか。そのような寂しさで授業が終わらないために、我々はなにができるだろうか。

様々な意見や考え方に触れることの重要性は、

さまざまあると思われるが、

特にこのクローズドな学校・教室の空間を問題視したい。

 

また、その問題の一つの解決策ともいえる、

外国人を学校に呼ぶ、教室に呼ぶ、

そしてなんか話してもらう、話を聞いてもらう、という活動にも釘をさしたい。

 

特に私がいいたいのは、「留学生(外国人)をゲスト扱いしすぎてない?」です。

日本特有のおもてなし文化、すばらしい一面ももちろんあると思いますが、

もっと普通の生徒として生活したい・扱ってほしい人もいるんじゃない?

っていうことがいいたかった。結局のところ、ゲスト扱いしても、

生徒と留学生がふつうの交流をしないと

お互いのことをよく知れないと思うんだよねえ。